Aphex Twinと私

なんとなく、
耳に入って来た音楽に対して、3つのパターンにわけることができなくはないのでわけてみる。
一聴して興味ないような気がする音楽. 
興味あるような気がする音楽. 
他人が作った曲と思えないような肌にぴったり合ってる気がする音楽.
そのうち最後の、
他人の作った音楽だということに異和感あるほど自分の感性にとても近いと思える音楽を作る人が僕には4人いて。
竹村延和アキツユコ、アーキタイプのカツマタ、エイフェックスツインのリチャードDジェームス。
そのうち最後の、エイフェックスツインについて書いてみる。

リチャードはセンスがいい。彼が機材をいじって遊んで完成させる曲はなんだってピュアな箱庭アートになる。
「普遍性のある=自然物に近い存在感がある」とするならば、彼には普遍性のある音を作る(求める)センスがあり、
それを失わない純粋さを貫けている、という風に見える。
そもそも楽曲にストーリー性をあまり求められずに済むようないわゆる“テクノ“のマーケットの中でもエイフェックスツインは、キャッチコピーとして
モーツアルトをひきあいに出されていたように、たしかに綺麗な旋律のあるテクノミュージックだといって間違いはない。
じゃあ実際にモーツアルト級の天才的なメロディメーカーなのか、ハーモニーメイカーなのか、といえば、
それほどのものではない。テクノにしては、テクノのくせして、という程度といってもいいのかもしれないくらいじゃないか。
旋律的にはとっても単純。それ以上単純に出来ないという程にシンプルなチャイムのような成り立ちのものが主。
こんな複雑なメロディも作れるよなんて見せつけようとする作家的芸術家的プライドなどは全く感じられない。
リチャードにとってはメロディよりもまずは音色そのものこそが第一に重要なはずだ。
曲によっては本人にしてみても多くのリスナーにとっても、古びてしまった曲はそれなりにあるかもしれない。
リズム、パーカッションサウンドだけとってみれば特にあるかもしれない。
けれど、古びてしまった楽曲以上に15〜25年たった今でも古びていない楽曲の方が多いというのは
多くの人にとって驚ける事実かもしれん。
けど僕にとっては最初からわかってたことだ。驚けることじゃない。
その普遍性は彼のサウンドを初めて聴いた時から明らかだった。

1994年は、僕にとって竹村延和とアントニオカルロスジョビンとエイフェックスツインに出会った年だった。
それ以前もThe Orbや808ステイトなどは聴いてたけど、停滞したロックの新譜よりもインテリジェンステクノなるものなどに
未知の革新的音楽がある可能性を期待してその年の春に出た石野卓球野田努の対談本「テクノボン」をガイドに、
かたっぱしからそこで紹介されてるCDとプラス渋谷WAVEやCISCOで勘での衝動買いに明け暮れてた1994年。
試聴もせずに大量に買ってたテクノアルバムの中で自分が聴く意味を感じられたのは、リチャードとその友達達(トムとマイケルとルーク)の音楽と
ブラックドックとベドウインアセントと初期ケンイシイとデリックメイともうひとりのリチャード(H・カーク)... 

エイフェックスツインのアンビエントワークスはリチャードの中学生の頃からの初期作品集で、
1曲目の「Xtal」が実際いつ作られた曲なのかは定かじゃないけど、音が始まった瞬間に合点がいくわけです。その普遍性のあるセンスへの確信に。
普遍性を求めている感性に。自然への敬意に。
お母さんの子宮のなかで胎児が聴いてるようなサウンド...といわれてた気がするが、確かにそれはわかる。
その優しい質感の根っこには彼の「森羅万象の自然の中の法則性にあるような深い説得力に近いものを表したい表現欲求」
が見えます。
音色の表され方からして。
テクノでありつつも、全然プラスティックな響きじゃない。
それが一聴インダストリアルノイズのようなパーカッションの音だとしても。それらさえにも根源的な心地良さがある。
もしくは悦楽そのものが。
彼自身はおそらく優しさなどに拘ってるわけは無く、
自分が聴きたいものを作りたい一心だ。楽しいもの心地いいもの痛快なもの新しい感覚のもの。
自分にできることをできる範囲で。しかし並以上に強烈にそれを求めている。
たぶんそうだ。

リチャードの作るビートはというと、やっぱりそれも優しい。楽しい。跳ねている。ルンルンビートだ。
95年発表の『...I care because you do』収録の「Mookid」「Alberto Balsalm」「Cow Cud Is A Twin」「Acrid Avid Jam Shred」
の4曲が素晴らしい。95年の他のどの音楽と比べても先端を行っているようで懐かしいような、不思議な存在感、かっこよさ、かわいさ、美しさ、
う〜ん、なんといったら的確かわからないが、自分にナチュラルに馴染み、自然なのに刺激があるテクノっちゅーかナイーブにヒップホップしてるこの4曲はカセットテープに編集して、当時いつもウォークマンで聴いていた。竹村延和やジョビンやヤン富田ベドウィンのお気に入り曲とあわせていつもいつも。
96年の『Richard D. James Album 』にいたっては全編通して完璧で、聴くなら1曲もとばせない。
リズムはジャングルになったわけではない。うちこみジャズドラムオカズ大会というリチャード周辺ミュージシャンサークル内での爆笑ブームに感染した、
と見るべき変化だろう。
ウチコミジャズドラムハードロール大会のうえに漂うウワモノメロディやハーモニーは中学生時代から相変わらずの一貫した
単純牧歌型チャイムミュージックだ。
ただ、リチャードはかつては自分に課さなかったようなしばりを設けて一気に制作した風に見受けられる。
曲を短く、密度濃く、自分の声を入れる、弦の音を入れる、笑えるオカズを入れる
このテーマが思いっきり功を成してエポックがメイキングされた。
そう思う。
20世紀音楽史の事件を3つあげてみよといわれたら
ストラビンスキー『春の祭典』、ビーチボーイズ『ペットサウンズ』についであげるに相応しい内容かと。
そんなすごいものを作ってる音楽家をなぜに自分は他人と思えないなどと思ってるのか。
なぜなんでしょう?
すごく親近感を感じるんです。
そう思ってる宅録家はきっと世界中にいるんでしょうね。
それがイコールリチャードのもつ普遍サウンドの所以ということだともいえましょう。

(続く? )