貧しい彩り

”日常”というのはふつう、自分らしさのイメージに固執した彩りに閉ざされた生活になりがちだ。
代わり映えなくとも自分らしいと思っている色の服を買い、
代わり映えなくとも自分に合ってると思っている音楽を流し、
代わり映えなくとも自分に合ってると思っている人と会い、
代わり映えなくとも自分が好みだと思っている料理を食べ、
代わり映えなくとも自分が好きな場所だと思っている場所へ行き、
代わり映えなくとも自分らしいと思っている話し方で話し、
代わり映えなくとも自分らしいと思っている歩き方で歩き、
代わり映えなくとも自分らしいと思う選択を毎瞬選ぶ。
そして、圧倒的に、「しない」ことが自分らしいという判断から実際にそれをしない選択をしてばかりな生活。
意外性の入り込む余地は、意外性を許さない限りは現れない。
自分が限定してる自分らしさの世界。その範囲の狭さというのは恐ろしいほどだと思ってきっとまちがいない。
自分らしさ(&自分らしくなさ)のイメージの雛形は自分だけで作ったわけではない。引き継いだ血、母親自身の押しつけ、間接的に母親を取り囲むバックボーン、父親もしかり、先祖もしかり、それぞれの時代背景、お国の外交事情、育った地域環境、出会った全てのともだちや教師や上司の信念、出会った書物や表現の中の思想、感動してしまった出来事、空気、、
人が分かり合うのは難しい。というか分かり合えなどしない。
歩み寄る手段としては、同化してみるという手法が有効で、その人に感化されてしまう前にこちらからその人にナリスマシテみせるのだ。勘違いも多いだろうが、ナリスマシテみなかったら共感できなかっただろうことへの共感が容易く出来るようになったりすることは否定できないのではないか。
今までNOと言っていたこと全てにYESと言ってみたら。。
それだけで個人の世界は必ず変わるだろう。
劇的に。